これは大学時代のサークルの先輩から聞いた話。
先輩は昔から渓流釣りが趣味で、シーズン中は毎週のようにどこかの川に入っていたらしい。
その日は、県境に近い、あまり人が入らない渓流に一人で入渓した。地図には載っているが、実際に行く人は少ない、いわゆるマイナーな沢だったという。
朝の六時過ぎ、まだ薄暗い中、車を停めて準備を済ませ、川沿いの獣道のような道を歩いていった。
一時間ほど遡行したところで、ちょうどいい深さの淵を見つけた。竿を出してみると、面白いように魚がかかった。二十センチを超えるイワナが、立て続けに三匹。
夢中になっていたところ、ふと上流の方から、ザザッという水音がした。
大きな魚が跳ねたにしては、少し規模が違う感じがしたという。念のため様子を見に行ったが、特に何も見当たらなかった。
気にせず釣りを続けていると、また同じ方向から、今度はもっと近い距離で水音がした。
その時になって、先輩は妙な違和感に気づいたらしい。
自分の他に、誰かがこの沢に入っている気配がする。だが、駐車していた場所には、自分の車しかなかったはずだ。
半信半疑のまま、さらに釣り上がっていくと、開けた場所に出た。そこで、川の中央あたりに、大きな岩がぽつんと一つ、突き出しているのが目に入った。
その岩の上に、何か黒っぽいものが乗っている。
最初は流木か何かだと思ったらしいが、近づくにつれて、それが人の形に見えてきた。
膝を抱えるようにして座り込んだ、人影のようなシルエット。
声をかけようとしたが、喉が詰まったように声が出なかったという。
そのまま数秒、動けずにいると、その影は音もなく、すっと岩の向こう側へ滑り落ちるように消えた。水しぶきの音すら、一切しなかった。
その日はそれ以上釣りをする気になれず、荷物をまとめて早々に沢を後にした。
後日、地元の釣具店で世間話のついでに、その沢の名前を出してみたところ、店主が急に真顔になってこう言ったという。
「あの沢、昔から『あそこの淵で竿を出すと、上から呼ばれる』って言われてるんだよね。何人か、実際に沢で行方が分からなくなった人もいるらしいよ」
それ以来、先輩はその沢にだけは、二度と足を踏み入れていないという。

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