【1分怪談】下山ルート

これは、五年前に自分自身が経験した話だ。

当時、登山を始めて二年目で、単独行にもだいぶ慣れてきた頃だった。仕事の休みが不定期で、なかなか友人と予定を合わせられなかったこともあり、自然と一人で山に入ることが多くなっていた。装備も少しずつ揃え、地図読みや天候判断についても、自分なりに勉強していたつもりだった。

その日向かったのは、県内でも中級者向けとされる標高千八百メートルほどの山で、日帰りでの往復を計画していた。以前から一度登ってみたいと思っていた山で、インターネットの登山記録サイトでも、比較的整備が行き届いているという評判だった。

前日のうちに登山口近くの道の駅で車中泊し、朝五時に駐車場から出発した。装備を最終確認し、登山届も忘れずに提出した。天気予報は終日晴れ、風も弱いという予報で、条件としては悪くなかった。

この山を選んだのには理由があった。数ヶ月前、職場の先輩から「眺めが良くて、初心者から中級者まで楽しめる」と勧められ、いつか登ってみたいとずっと思っていた。単独行に慣れてきたとはいえ、まだ本格的な岩場や鎖場のあるコースには自信がなく、この山はちょうど自分の実力に合った、ステップアップにふさわしい場所だと考えていた。

登りは順調だった。整備された登山道を、コースタイムより少し早いペースで、休憩を挟みながら三時間ほどで山頂に到着した。平日ということもあってか、道中すれ違った登山者は数組程度で、思っていたよりも人が少なかった。山頂でも、先に到着していた年配のグループが一組、休憩を終えて下山していくところに出くわしただけで、それ以外に人の姿は見当たらなかった。空は雲一つなく晴れ渡り、遠くの山々まで見渡せる、気持ちの良い眺望だった。写真を何枚か撮り、簡単な昼食を取ってから、正午前には下山を開始した。

異変が起きたのは、下山を始めて一時間ほど経った頃だった。

それまで晴れていた空に、急に灰色の雲がかかり始めた。天気予報にはなかった急変で、山の天気の変わりやすさを、身をもって思い知ることになった。

風も次第に強まり、気温も一気に下がっていくのが分かった。慌ててウィンドブレーカーを羽織り、ペースを落とさずに下山を続けた。

視界が徐々に悪くなり、霧のようなガスが登山道を覆い始めた。数メートル先の木々の輪郭すら、ぼんやりとしか見えなくなってきた。それでも、来た道を戻るだけだからと、落ち着いて足を進めていた。

だが、しばらく歩いたところで、見覚えのない分岐点に出くわした。

記憶では、下山ルートに分岐はなかったはずだった。登りのときに通った記憶を必死にたどったが、ガスのせいで自信が持てなかった。地図を取り出そうとしたが、突然の風でうまく広げられず、何度も折り目のところで千切れそうになった。

一旦落ち着こうと、その場で腰を下ろし、地図とコンパスで現在地を推測してみた。だが、視界不良のせいで、周囲の目印になる岩や尾根の形が確認できず、確信を持てる答えは出せなかった。

スマートフォンの地図アプリも試したが、この時点で既に電波が入らなくなっていた。GPSの機能だけは生きていたが、地図データが事前にダウンロードできていなかったエリアで、現在地を示す青い点だけが、何もない空白の画面にぽつんと表示されているだけだった。

とりあえず、下りの傾斜が続く方向へ進むことにした。標高を下げれば、いずれ人里に近づけるはずだという判断だった。今思えば、これが正しい判断だったのかどうか、今でも分からない。

一時間ほど歩いても、見覚えのある景色には出会わなかった。時刻はすでに午後三時を回っていた。日没まで、あと三時間程度しかない。

焦りを感じながらも、パニックにならないよう、深呼吸をして気持ちを落ち着けた。持っていた非常用のホイッスルを時折鳴らしながら、慎重に足を進めた。誰かに届くとは思えなかったが、何もしないよりはましだと自分に言い聞かせた。

足元は次第に悪くなり、登山道と呼べるかどうかも怪しい、獣道のような斜面を進むことになった。木の根や岩に何度も足を取られ、膝には擦り傷ができていた。それでも立ち止まるわけにはいかず、ひたすら下へ、下へと歩き続けた。

途中、何度か引き返して分岐点まで戻ろうかとも考えた。だが、既にかなりの距離を進んでしまっていて、来た道を正確にたどれる自信もなかった。中途半端に迷うより、決めた方向へ進み続ける方が良いという判断で、そのまま足を進め続けた。

息が上がり、汗が冷えて体が冷たくなっていくのを感じた。喉の渇きを覚え、持ってきた水を口にしたが、残量はもう半分を切っていた。今日中に下山できなかった場合、この量でどこまで持ちこたえられるのか、頭の片隅で計算しながら、それでも歩みを止めるわけにはいかなかった。

午後四時を過ぎた頃、ガスが少しだけ晴れ、視界が開けた瞬間があった。その隙に周囲を見渡すと、少し離れた場所に、古びた作業小屋のようなものが見えた。

このあたりに山小屋の記録はなかったはずだが、藁にもすがる思いで、その小屋を目指すことにした。近づくにつれて、外壁の板が所々剥がれ落ち、屋根の一部も陥没しかけているのが分かった。長年放置されているのは明らかだったが、それでも雨風をしのげるだけで、今は十分にありがたかった。

近づいてみると、木造の、かなり老朽化した小屋だった。扉は半分朽ちていて、簡単に開けることができた。中は薄暗く、埃をかぶった古い道具や、用途の分からない木箱がいくつか置かれているだけの、簡素な作りだった。壁の隅には、蜘蛛の巣が幾重にも張られていた。

日没が近づいていたこともあり、その夜はこの小屋で一晩を明かす決断をした。装備には、非常用のツェルトと簡易的な食料、水は十分にあった。ヘッドライトの明かりを頼りに、小屋の中で座れそうな場所を確保し、荷物を整理した。

小屋の中で座り込み、非常食を口にしながら、スマートフォンで電波を確認したが、圏外のままだった。バッテリーの消費を抑えるため、機内モードに切り替えた。家族には、出発前に、下山予定時刻を過ぎても連絡がなければ警察に連絡するよう伝えてあった。それだけが、唯一の心の支えだった。

日が完全に落ちた頃、外から、かすかに鈴の音のようなものが聞こえてきた。

登山では熊よけの鈴を持っている人も多いので、最初は他の登山者かと思い、慌てて小屋の外に出て声をかけてみた。

「すみません、誰かいますか」

声を張り上げてみたが、返事はなかった。外には誰の姿もなかった。鈴の音だけが、少し離れた場所から、途切れ途切れに聞こえ続けていた。風向きのせいか、音の方向すらはっきりとは特定できなかった。

不気味に思いながらも、これ以上動くのは危険だと判断し、小屋の中に戻った。扉には内側から、荷物を積んで簡単な支えを作った。ツェルトにくるまり、なるべく音を気にしないようにしながら、浅い眠りについた。

夜中、何度か物音で目を覚ました。小屋の外を、何かが歩き回っているような足音だった。獣かもしれないと思い、じっと息を潜めてやり過ごした。足音は、小屋の周りを一周するように、ゆっくりと移動していくのが分かった。

明け方近く、うとうとしていたところ、小屋の扉が軋む音で目が覚めた。

恐る恐る目を開けると、積んでおいたはずの荷物が少しずれていて、扉の隙間から、外の薄明かりが差し込んでいた。誰かが開けたのか、風で開いただけなのか、判断がつかなかった。

その扉の隙間から、じっとこちらを見ている人影があった。

登山者のような服装だったが、顔ははっきりと見えず、微動だにせずそこに立っていた。頭のてっぺんから足元まで、輪郭だけがぼんやりと、逆光の中に浮かび上がっていた。

声をかけようとしたが、喉が引きつって、うまく言葉が出てこなかった。数秒見つめ合ったあと、その人影は、音もなくすっと後ろに下がるようにして、闇の中に消えていった。

それから朝が来るまで、一睡もできなかった。ツェルトの中で膝を抱え、ただじっと時間が過ぎるのを待ち続けた。

朝になり、恐怖の中、明るくなるのを待って、すぐに小屋を出た。周囲を確認すると、幸いにも、ガスはすっかり晴れており、遠くに見覚えのある稜線が見えた。それを頼りに、慎重に下山を再開した。

昼前になって、ようやく登山道の分岐点に合流し、そこから一時間ほどで、無事に登山口の駐車場まで戻ることができた。車に乗り込んだ瞬間、張り詰めていた緊張が一気に緩み、しばらく運転席で動けなかった。

家族に無事を連絡した後、地元の交番に立ち寄り、道に迷って一晩山中で過ごしたことを報告した。対応してくれた警察官は、話を聞きながら、地図を広げてこちらが辿ったルートを確認してくれた。

そこで、警察官から意外なことを告げられた。

「この場所、記録にある古い作業小屋だと思うんですが……この小屋、もう十年以上前に、崩落で完全に潰れているはずなんです」

耳を疑ったが、警察官はさらに、その小屋にまつわる話を教えてくれた。数十年前、その小屋の近くで、単独登山中の男性が遭難し、結局発見されないまま、行方不明として処理された事案があったという。当時、大規模な捜索が行われたが、手がかりすら見つからなかったらしい。

自分が一晩を過ごした小屋が、本当に崩落した廃屋そのものだったのか、それとも別の何かだったのか、今でも分からない。後日、同じ登山口から入ったという知人に頼んで、あの場所を確認してもらったこともあるが、報告されたのは、木材が朽ち果てて崩れ落ちた残骸だけだったという。

ただ、あの夜、扉の隙間から見えた人影のことだけは、今も鮮明に覚えている。何度思い返しても、あれが野生動物だったとは、どうしても思えない。

それ以来、登山を完全にやめたわけではないが、単独での行動だけは、どうしても避けるようになった。誰かと一緒であれば、あの夜のようなことは、二度と起きないような気がしているからだ。

今でも時々、あの分岐点のことを思い出す。もし、あのとき違う方向へ進んでいたら、自分はどうなっていたのだろうか。そう考えると、答えの出ない問いだけが、いつまでも胸の奥に残り続けている。

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