古書店を営んで、もう二十年になる。小さな店だが、地元では多少名の知れた店だと思う。
この話は、開店してまだ数年の頃のことだ。
閉店間際、もう看板を下げようとしていたところに、一人の老人が店に入ってきた。灰色の風呂敷包みを大事そうに抱えていて、これを買い取ってほしい、と言う。
急いでいる様子だったので、少し面倒には思ったが、風呂敷を開けさせてもらった。
中には、古い和綴じの本が一冊。表紙に題名はなく、ただ「記」とだけ、達筆な字で書かれていた。
パラパラとめくってみると、日記のような体裁で、几帳面な字がびっしりと並んでいた。日付は明治時代のもので、状態も悪くない。骨董的な価値としては、そこそこの値がつきそうだった。
「これは、お宅に代々伝わるものですか」
そう尋ねると、老人は少し目を伏せてから言った。
「私の家のものではありません。ただ、預かっているだけです」
意味がよくわからなかったが、事情のありそうな客は珍しくない。深くは詮索せず、査定額を伝えると、老人はほとんど値切ることもなく、その場で了承した。
代金を渡し、住所と名前を控えようとすると、老人は「それには及びません」とだけ言って、逃げるように店を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、少し妙な胸騒ぎがしたのを覚えている。
その夜、閉店作業を終えてから、買い取ったばかりのその日記を、何気なくもう一度開いてみた。
最初の数十ページは、当時の何気ない日常が淡々と綴られていた。天気のこと、近所付き合いのこと、家族のこと。
だが、ページをめくるうちに、少しずつ様子がおかしくなっていくのに気づいた。
「今日も、あの声が聞こえた」
「誰もいないのに、誰かがそこにいる」
「もう、書くのをやめようと思う。だが、書かないと、もっと近づいてくる気がする」
そんな一文が、ページを追うごとに増えていった。
最後のページには、それまでの几帳面な字とは打って変わって、震えたような乱れた筆致で、たった一行だけ書かれていた。
「次にこの日記を開いた者に、あれが移る」
背筋が冷たくなったが、迷信めいた話だと自分に言い聞かせ、その日はそのまま店の奥にある書庫に日記をしまい、家に帰った。
翌朝、店に着くと、書庫の扉が開けっ放しになっていた。鍵は確かにかけたはずだった。
慌てて中を確認すると、日記だけが棚から消えていた。防犯カメラにも、それらしい人影は一切映っていなかった。
以来、あの老人を店で見かけたことは一度もない。
日記が消えた朝からしばらくは、何かが起こるのではないかと身構えていた。だが、これといった変化もないまま日々は過ぎ、いつしかこの一件も、店の隅にしまい込んだ古い記憶の一つになっていった。
それでも、今でも時々思い出すことがある。
閉店作業の手を止めて、ふと店内を見回したとき。誰もいないはずの書庫の方から、紙をめくるような、かすかな音がした気がする夜。
そんなとき決まって、あの最後の一行がよみがえる。
「次にこの日記を開いた者に、あれが移る」
もう随分前のことだ。あの日記を開いたのは、確かに自分だった。
だから今も、この店では日記の類を買い取るとき、必ず最後のページまで、誰よりも先に自分の目で確かめるようにしている。
もし、あの続きが本当に誰かに移っていたのだとしたら――それが今どこにあるのか、自分には知る術がない。

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