職場の先輩が、最近様子がおかしいという話を、同僚から聞いた。
普段から物静かで、あまり自分のことを話さない人だったが、ここ最近、休憩中にぶつぶつと独り言を言っていることが増えたらしい。仕事ぶり自体はこれまでと変わらず真面目で、周囲に迷惑をかけているわけではなかったが、なんとなく皆、距離を置くようになっていた。
気になって、ある週末、差し入れを口実に、先輩の家を訪ねてみることにした。会うのは久しぶりだったので、内心少し緊張しながら、教えてもらった住所を訪ねた。アパートの外観自体は、特に変わったところのない、ごく普通の建物だった。
インターホンを押すと、少し間があってから、先輩が顔を出した。以前と変わらない、穏やかな笑顔だった。「わざわざありがとう」と言いながら、部屋に招き入れてくれた。
玄関を開けてもらった瞬間、驚いた。
狭いワンルームの天井から壁まで、大小さまざまな風鈴が、数えきれないほど吊るされていた。無風の室内なのに、どこかでかすかにチリンと鳴っている。ガラス製のもの、陶器のもの、素材も形もばらばらで、まるで長い年月をかけて集められたかのような雑多さだった。
「これ全部、先輩が集めたんですか」
そう聞くと、先輩は少し困ったように微笑んだ。
「集めたっていうか、増やしなさいって言われてるの」
誰にと聞くと、先輩は窓の外、隣の空き地に立つ古い木を指差した。カーテンの隙間から見えるその木は、周囲の建物よりも高く伸びていて、夕暮れの中でひときわ黒々とした輪郭を放っていた。
「あの木の下から、時々聞こえてくるのよ。声とは違うんだけど、頭の中に直接、ぼんやりと伝わってくる感じ」
その木は、以前から近所で「触ってはいけない木」と言われている、少し曰くつきの木だった。子供の頃、近づくなと大人に言われた記憶が、自分の中にもうっすらと残っていた。だが、先輩は特に不安そうな様子もなく、当たり前のことのように話し続けた。
「風鈴を増やすと、あの木も静かになるの。だから、増やさなきゃいけない気がして」
半年前、先輩は長年付き合っていた恋人と別れていた。結婚も視野に入れていたと以前聞いたことがあったので、周囲も驚いていたのを覚えている。その頃から、少しずつ様子が変わっていったように思う、と同僚たちは口を揃えて言っていた。
「あの人たち、そのうち静かになるから」
先輩がぽつりと言った「あの人たち」が誰を指すのか、聞くのが怖くて、その場では確認できなかった。それ以上踏み込むことができないまま、当たり障りのない話題に切り替えて、その日は早々に部屋を後にした。
それから数日後、先輩の元恋人と、その結婚相手についての噂が、職場に流れてきた。二人が暮らすアパートの近くで、原因不明の物音が続き、心労で体調を崩しているという話だった。詳しい内容は誰も知らず、又聞きの噂に過ぎなかったが、それを聞いた瞬間、心臓が跳ねるのを感じた。
偶然だろうと自分に言い聞かせながらも、あの日見た無数の風鈴と、先輩の静かな声が、頭から離れなかった。夜、ふとした瞬間に、あの部屋のかすかな音の記憶が蘇ることがあった。
その後、先輩は特に変わった様子もなく、いつも通り出勤を続けている。ただ、あの日以来、先輩の家の話も、あの木の話も、誰も職場では触れないようになった。腫れ物に触るような空気が、いつの間にか自然と出来上がっていた。
風の噂で、あの空き地の木が、近々伐採されることになったと聞いた。宅地開発の計画があるとかで、来月には工事が始まるらしい。その話を先輩に伝えるべきかどうか、今も迷っている。
もし本当に、あの木が何かを抑え込んでいたのだとしたら。木がなくなった後、先輩の部屋に吊るされた無数の風鈴は、一体何を鳴らし続けることになるのだろうか。
そんなことを考えながら、今日もまた、先輩の静かな後ろ姿を、少し離れた席から眺めている。

コメント