美術館で警備員をやっている。もう五年くらいになる。
夜間の巡回も仕事のうちで、閉館後に館内を一周するのが日課になっている。
去年の企画展のときにあった話だ。
その企画展は、地元出身の画家の作品を集めた特別展示で、中でも一枚、女性の肖像画がメインの展示室に飾られていた。若い頃の自画像だと、展示のキャプションに書かれていた。画家自身がまだ無名だった時代に描いたもので、今回の企画展の目玉として、特別に大きく扱われていた。
夜の巡回で、いつもその展示室を通るとき、なんとなく絵と目が合う感じがして、あまり長くは見ないようにしていた。昼間、来館者が絵の前で足を止めて眺めている姿を見るのとは、また違う感覚だった。誰もいない夜の展示室で、その絵とだけ向き合う時間が、どうにも落ち着かなかった。
ある夜、いつも通り巡回していたら、展示室の照明が、消灯しているはずなのに、うっすら点いている気がした。
確認しに行くと、実際には消えていた。気のせいかと思って通り過ぎようとした瞬間、視界の端で、絵の中の女性の顔の向きが、さっきと違うように見えた。
二度見したが、もちろん絵だから動くわけがない。ただの錯覚だと自分に言い聞かせ、その日はそのまま巡回を続けた。
数日後、また同じことがあった。今度は照明ではなく、絵の前だけ、空気がひんやりする感じがした。
気になって、その夜の巡回記録に、時刻とともに簡単なメモを残しておくことにした。何が起きたのか、正確に書き留めておけば、後で見返したときに何か分かるかもしれないと思ったからだ。
それから、巡回のたびに同じ展示室で違和感を覚えるようになった。ある夜は、絵の額縁のあたりだけ、埃の積もり方が不自然に薄いことに気づいた。清掃業者が特別に手を入れた形跡もないのに、その一角だけがやけに綺麗だった。
また別の夜には、展示室に足を踏み入れた瞬間、微かに花のような香りがした。館内には香りの出るような展示物は他になく、換気設備の点検記録を確認しても、特に異常は見当たらなかった。その香りも、数分経つといつの間にか消えていた。
さらに数日後、巡回中にふと足元を見ると、絵の真下の床にだけ、うっすらと湿った跡のようなものが残っていることに気づいた。雨漏りを疑って天井を確認したが、その形跡もなかった。
数週間分のメモが溜まった頃、休憩時間を使って、展示にまつわる資料をまとめて確認してみることにした。企画展の準備段階で作成された、作品ごとの貸し出し・搬入記録が、事務所の棚に保管されていた。ファイルは作品ごとに分かれていて、あの肖像画のものだけが、他と比べて紙の枚数が明らかに多かった。
その中に、あの肖像画についての記録があった。搬入時の状態確認書には、額縁の傷や絵の具の剥がれなど、細かい損傷箇所が図解付きで記されていた。図の中に、額縁の下部、自分が違和感を覚えていたのとちょうど同じ位置に、小さな印がつけられているのを見つけた。
備考欄には、短くこう書かれていた。
「額裏に旧修復跡あり。詳細不明」
それ以上の説明はなかった。誰が、いつ、どんな修復をしたのかも、記録には残っていなかった。念のため、ファイルの他のページもめくってみたが、それに関連する追記や補足資料は見当たらず、この一行だけが、ぽつんと浮いているような印象を受けた。
その晩の巡回で、もう一度その展示室を訪れてみた。特に何も起きないまま、いつも通りの静かな夜だった。ただ、絵の前に立ったとき、以前よりも長く、その場に留まってしまっている自分に気づいた。時計を確認すると、いつもの巡回時間よりも、五分近く多く経っていた。何をしていたのか、はっきりとは思い出せなかった。
その香りも、床の湿り気も、写真に撮って残しておいたわけではなく、今となっては自分の記憶の中にしか残っていない。それでも、あの数週間の記録だけは、巡回ノートの片隅に、そのまま残してある。いつか誰かが読み返したとき、何かの参考になるかもしれないと思ったからだ。
企画展が終わり、絵が所蔵元の美術館へ返却されると、あの展示室で違和感を覚えることはなくなった。それでも、返却前日の最終巡回で見た絵の表情だけは、今でもはっきりと覚えている。
心なしか、少しだけ、こちらに笑いかけているように見えた。
それが照明の加減だったのか、それとも別の何かだったのか、今もまだ、自分の中で答えは出ていない。

コメント