実家の二階に、祖父が使っていた書斎が今も残っている。
祖父が亡くなったのは、自分が中学生の頃だった。それ以来、その部屋は特に手を付けられることもなく、本棚や机がそのままの状態で置かれ続けている。
子供の頃から、その部屋にはあまり近づかないようにと、両親から言われていた。理由は特に説明されず、ただ「おじいちゃんの部屋だから」というだけだった。子供心に、なんとなく近寄りがたい雰囲気を感じていたのを覚えている。
去年、実家の大掃除を手伝うことになり、久しぶりにその書斎に足を踏み入れることになった。長年閉め切られていた部屋は、独特の埃っぽい匂いがして、窓から差し込む光の中を、細かい塵がゆっくりと舞っていた。
本棚には、専門書や古い雑誌が整然と並んでいた。祖父は元々、地元の高校で歴史を教えていた人で、書斎には歴史関連の資料が特に多かった。定年退職してからも、毎日欠かさずこの部屋にこもって、何かを調べたり書いたりしていたのを覚えている。子供の頃、たまに廊下から見かける祖父の背中は、いつも書き物机に向かい、静かにペンを走らせていた。
無口な人だった。孫である自分にも、世間話らしい世間話をした記憶はほとんどない。ただ、たまに書斎から出てきたときだけ、ふと機嫌が良さそうに、その日調べていた歴史の話を、誰に向けるでもなく呟くように話すことがあった。今思えば、あの部屋は祖父にとって、家族の誰も踏み込めない、唯一の居場所だったのかもしれない。
片付けを進めていると、机の引き出しの奥から、一冊の古い手帳が出てきた。表紙には日付だけが書かれていて、中を開くと、祖父の几帳面な字で、日々の出来事が短く記されていた。
何気なくページをめくっていくうちに、ある年の、ちょうど今の時期の記述に目が留まった。
「夜、書斎で物音。誰もいないはずなのに、本が一冊、床に落ちていた」
その数日後の欄には、こう続いていた。
「また同じ音。今度は、確かに人の足音のように聞こえた」
日記はそれから数週間にわたって、同じような記述が断続的に続いていた。祖父らしい、感情を抑えた淡々とした筆致で、起きたことだけが記録されていた。
「本棚の一番上、いつも同じ本だけが、朝には少しずれている」
「今夜は物音がしなかった。だが、机の上に置いていたはずのペンが、床に落ちていた」
日を追うごとに、記述されている出来事は少しずつ変わっていったが、共通しているのは、いずれも些細で、誰かに話しても信じてもらえなさそうな、小さな異変ばかりだったことだ。それでも、祖父はそれを几帳面に、一つ一つ書き残し続けていた。まるで、いつか誰かがこの手帳を読むことを、どこかで見越していたかのようだった。
ふと、片付けの手を止めて、部屋の中を改めて見回した。祖父が座っていたであろう椅子、その向かいの本棚。日記に書かれていた出来事は、今、自分がまさに立っているこの部屋で起きていたことになる。
その夜、片付けが終わらず、荷物を書斎に置いたまま、実家に泊まることになった。子供の頃の自分の部屋はもう物置になっていたので、久しぶりに、二階の空いている部屋に布団を敷いて寝ることになった。廊下を挟んだ向かいが、ちょうど祖父の書斎だった。
夜中、ふと目が覚めると、二階のどこかから、かすかな物音が聞こえた気がした。時計を見ると、深夜二時を少し過ぎたところだった。
耳を澄ませてみると、それは本が床に落ちるような、コトン、という音だった。方向は、間違いなく書斎の方からだった。
一瞬、体が固まった。手帳に書かれていた記述の数々が、頭の中を一気に駆け巡った。だが、隣の部屋で寝ていた父が、特に反応する様子もなく寝息を立てているのが聞こえて、少しだけ落ち着きを取り戻した。空き家がちな古い家だから、風や建付けの問題で音がするのはよくあることだと、自分に言い聞かせた。
それでも、しばらくは布団の中で息を潜め、次の物音がしないか耳をそばだてていた。結局、何も起きないまま、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。
翌朝、恐る恐る書斎を覗いてみると、床に、確かに一冊の本が落ちていた。
昨夜、片付けの際に本棚に戻したはずの、祖父の蔵書の一冊だった。棚から自然に落ちるような位置には置いていなかったし、地震などもなかった。
その本を拾い上げ、もう一度本棚に戻した。表紙を確認すると、祖父が生前、特にお気に入りだったという歴史の専門書だった。手に取ったとき、ふと、ページの間から古い紙片が一枚、床に滑り落ちた。拾い上げてみると、それは祖父の字で書かれた、短い書き込みのメモだった。日付はなく、ただ一言、「今日はいつもと違う」とだけ記されていた。何を指しているのか、今となっては確かめようがなかった。
朝食の席で、両親にこの一連の出来事を話してみようかとも思ったが、結局、うまく言葉にできず、飲み込んでしまった。この部屋のことを、家族はこれまで誰も深く話題にしてこなかった。それには、それなりの理由があるのかもしれないと、今更ながらに思うようになった。
それ以来、実家に帰るたびに、その書斎の様子を確認するのが習慣になった。今のところ、あの夜以来、同じようなことは起きていない。
ただ、片付けを終えた今も、あの手帳とあの紙片だけは処分せず、書斎の机の上に、そのままそっと置いてある。

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